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vavaada31 もっと...

西から陽が昇る時

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通常 西から陽が昇る時

msg# 1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.2.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1.1
depth:
95
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008-4-11 0:58
hide  長老 居住地: 兵庫県  投稿数: 650
hideです。
 今回はコンコルドで、アフリカ西岸・セネガルの港湾都市ダカールから、ブラジル東端のナタールに向かいます。日没直後に出発して、超音速で太陽に追いつく計画です。
 また、せっかくアフリカに来ていますので、大西洋横断に先立って、先日ご紹介しました1920年代の郵便飛行をしのび、当時のサハラ砂漠の路線を一部、複葉機でたどってみました。まず、そのお話からご紹介しましょう。

●風と砂と星々と:
 戦前のアフリカは植民地に分割され、北西部の沿岸はスペイン領とフランス領で、海岸線の200〜300キロごとに、小さな港と兵士の駐屯地がありました。フランスのラテコエール社(のちにアエロポスタル社)は、こうした駐屯地に中継飛行場を作り、週に数便の郵便機を運航していました。
 若き日のサンテグジュペリは中継地の一つ、モロッコのカップジュビー(現タルファヤ)で飛行場長を約1年務め、不時着機の救出などに活躍しました。FlightGearには残念ながら、この飛行場がありませんので、もっと南にあるモーリタニアのポールエティエンヌから、西サハラのシズネロスまで、約180nm北上する区間を飛んでみました。いずれもFlightGearに空港がありますが、現在は現地風の新しい名称になっています。
 両空港は、サンテグジュペリの代表作「人間の土地」でお馴染みの中継地。愛読者の私としては、心躍るフライトです。

 使用機は、前回のピレネー越えと同じ、SV-4複葉機です。航続力が少し足りないので、タンク容量を1.5倍に増やしました。今回も地文航法を使うため地図が必要ですが、海岸線さえ見えればいい地形ですので、Atlas画面を印刷しました。

■アフリカ路線の郵便飛行を再現する■
     (ポールエティエンヌ=シズネロス間)
針路は真方位です。
◎ポールエティエンヌ
(現在のモーリタニア・NOUADHIBOU空港GQPP)
   ▼19度177nm
◎シズネロス
(現在の西サハラ・DAKLHA空港GMMH)

 両空港とも、陸岸に並行して南北に延びる、細い半島(たぶん砂洲)の先端付近にあります。半島は二つとも長さ40キロ足らずで、いずれも北端で本土に繋がっており、長いカギ型です。この地形を、しばらく頭に留めて頂ければ幸いです。

●楽勝ムードの昼間飛行:
 ポールエティエンヌでエンジンを始動。天候は全高度で雲量ゼロの快晴。約40度13Ktの風が吹いています。
 滑走路と飛行コースは、ほぼ同方位です。離陸前、速度計は10Ktを指しましたから、これが向かい風のベクトル成分です。また偏流(機体を横に流す風速成分)の影響で、経路は多少西にそれると予想されます。精密な補正計算は省略したものの、これらを一応覚えておきました。

 離陸後は600ftの低空を飛び、地図に描いた直線コースの方位にセット。半島の内海の上を、100Ktで北へ向かいます。内海が途切れた後、砂漠をしばらく飛んで、大西洋岸へ出れば、後はおおむね海岸沿い…というルートですので、迷いっこありません。私はコンパスで針路を設定し、腕時計を見て、地図上に推定位置を書き込みながら、鼻歌気分で飛び続けました。

 サハラと言いましても…海岸沿いには緑地があって、たまに砂漠が見える程度。時々道路も視野に入ります。
 やがて大西洋岸に出ましたが、予定より少し早いようです。またこの時点で見えるはずの、特徴ある形の湾が見当たりません。風の影響が予想より大きいと判断し、直線コースを捨てて海岸線をたどることにしました。低空で視程が短いため、海岸沿いに飛ぶと、コースはかなり蛇行します。
 航程の中ほどで時刻を「Dask」にして、大西洋の入り日を楽しみました。次いで「Evening」に切り替えると、海と大地を星空が彩ります。詩情あふれる光景ですが、闇が深まるにつれて、陸岸と海が見分けにくくなりました。

●空港はどこ?…難航の夜間飛行:
 とっぷり暮れた闇の中で、少々心細くなったころ、数マイル内陸に、海岸と並行する道路の灯が見えました。ありがたい! 以後はこれをたどることにします。
 腕時計によると…そろそろ洋上に、シズネロス空港の灯や半島が見えてもいいのですが、大西洋は一面の闇。そこで針路を西に取り、洋上に出て半島を探しました。数分後、眼下にうっすら陸が見えましたが、灯火はありません。旋回を重ねて目をこらすと、これは半島ではなく、私の地図にない小島です。さてシズネロスはもっと北? それとも…まさか、通り過ぎたかな?

 飛行中に迷ったら「直前の状態」に戻すのが原則ですね。機首方位を90度に取り、再び先ほどの道路上へ。向かい風の上、海岸沿いに蛇行して時間をロスしたので、シズネロス空港はさらに北と判断しましたが、かなり不安になってきました。
 地図をにらむと、シズネロスの半島から北の海岸線は、ほぼ45度に走っています。現在は30度以内ですから、シズネロスの南にいるようです。また眼下の道路は北方で分岐し、片方は半島を通って空港へ伸びるはずです。この分岐点を見逃すはずはないので、やはり北上が正解と判断しました。

 飛び続けること20分。もう一度半島を探そうと、海に出て真西に向かいました。しかし陸地は見えません。いよいよ航法が破綻してきたかな、と思ったとたん…水平線上に、微かな星々が並んで現れました。いや、あれは半島を縦断する、道路の灯です。

         「…着いた!」

 空港はたぶん南方です。視線を転じると南西約10nmに、細い「銀の鎖」が見えました。滑走路の灯火です。まもなく航空灯台の、白と緑の点滅も視界に入りました。空港を南に行き過ぎて、風下でターン。どしん、がたんと接地して、大きく深呼吸。機体を止めると、木立のシルエットが大変きれいでした。

●史実:
 サンテグジュペリの著作などによると、彼と通信士は1930年10月の夜、カサブランカから南下して、シズネロスに向かう途中、雲と夜霧のため、自機の位置を見失いました。たまたま無線(まだ電信)が混信する時間帯で、地上局による方位測定は不調。洋上に迷い出たうえ、月も沈んでしまいました。
 当時は操縦室の防音が悪く、飛行中の会話は困難で、パイロットと通信士はメモ用紙で意思疎通していました。彼らが空港の灯台を見つけた時、どれほど嬉しかったかは…エンジンの爆音を圧倒して、通信士が「大声で歌っているのが聞こえた」との、サンテグジュペリの記述からも、痛いように分かります。

 通信士は確認のため、シズネロスに「灯台を消灯し、3回点滅せよ」と打電しました。しかし、彼らの見た灯は消えませんでした。それは水平線上の星だったのです。
 彼らが、何度も間違った星に針路を向けた後、ようやくシズネロスの無線局が方位測定に成功し、針路を指示しました。しかし燃料が足りず、彼らは不時着水を避けようと、空港ではなく陸岸への推定最短コースを選びました。霧の暗夜、砂漠に不時着するのは極めて危険ですが、幸いにもツールーズからの指摘で、搭乗機のタンクが標準サイズではなく、燃料にまだ余裕があることが判明し、二人は無事シズネロスに向かいました。

 私が味わったスリルは、これとは比較になりませんが…まさか迷うとは思っていませんでしたので、目視による夜間航法の難しさを改めて実感しました。またフライトシムで、これほど必死に灯火を探し求めたのは初めてです。そのため予想よりも、ずっと面白いフライトになりました。

●西から陽が昇る時:
 次はコンコルドで、ダカールから南米ナタールへ向かいます。最終アプローチを容易にするため、滑走路の延長上約30nm手前にあるセアラ・ミリム空港を、補助目標に選びました。

■コンコルドで南大西洋横断■
        (ダカールからナタールへ)
コースは真方位。
◎ダカール空港GOOY(偏西9度)
   ▼大圏コース初期値223度・1612nm
◎セアラ・ミリム空港SB38(302ft)
   ▼151度36nm
◎ブラジル・ナタールAugusto Severo空港SBNT
滑走路8531ft(2600m)16L/34R 1000Ktで1:38
(Natal NDB 400)(偏西22度)(169ft)

 コンコルドを起動。メニュー欄の「Time settings」で日没を選び、さらに「Time warp」の「+」を1回押すと、時間経過が1秒あたり30分ぐらいに加速されます。機外が真っ暗になった時点で「−」を押し、通常の時間経過に戻します。この時の時刻は1958時(UTC=世界時)でした。
 離陸後20分。超音速で40000ftに達するころ、右60度の空がバラ色に、次いでオレンジに染まり、西から陽が昇りました。落日に追いついたのです。54000ftの巡航高度で、機体を太陽に向け、写真映りを良くするためアフターバーナーに点火し、スナップショットを撮影。以後は順調に、ナタールに到着…と書きたいところですが、予想外のトラブルが待ち構えていました。

●全エンジンと、電力を喪失:
 大西洋上を、6倍速に上げて超音速飛行中、エンジン4基が急停止。同時に電力も切れて、計器と照明、オートパイロットが機能喪失。現代機では、あり得ないはずの故障です。
 呆然としながら、マニュアル通り副操縦士を起動すると、機体の姿勢が安定し、ベスト滑空比で飛び始めましたが…どうやってエンジンを再起動するのだっけ。マニュアルを見ますと、まずRAT(ラムエアタービン=風車式の非常発電機)を起動することになっています。しかし機内は暗く、スイッチが見つかりません。ようやく機関士席の左下に発見し、ボタンを押しましたが、テストランプが点くだけでした。あのマニュアルは、なんなんだ?

 警報システムはかなり複雑なので、監視しておらず、エンストの原因は不明です。思い当たるのは、パワーと速度のバランスがやや悪く、エンジン計器が時々、アイドルから全開までジャンプを繰り返したこと。これはFlightGearのコンコルドの癖で、必要ない時にアフターバーナーを点けていると、時々起こるのですが、今回は違います。結局、機体を水平にして不時着水しましたが、トリムコントロールが不動のため250Kt以下に減速できず、クラッシュと判定されたのは無念です…。
 幸い途中でセーブしていましたので、後日やり直し、今度は成功しました。本機現バージョンのVOR/ILSは、うまく使えずにいますので、NDBとINSの距離・残り時間表示を頼りにナタールへ進入し、PAPIを見て接地。私としては初のコンコルド夜間着陸で、機関士席でエンジンを止め、やれやれと安心しました。

●メルモーズと「魔の海」:
 この大西洋横断ルートも、1930年代の郵便航空路の一部です。フランスがアフリカや南米に、長大な路線を開いた後、この両大陸を結ぶ渡洋ルートは、最後に残った難関でした。

 アエロポスタル社は当初、新型の単発水上機で、南大西洋横断空路の開拓に挑みました。サンテグジュペリの同僚で「フランスのリンドバーグ」と呼ばれた名手、ジャン・メルモーズが初横断を果たしましたが、帰路に故障で不時着水し、乗員と郵便物は船に助けられたものの、機体を失いました。
 その後も挑戦が続きましたが、南大西洋は魔の海でした。ある夜メルモーズは、「ポ・ト・ノワール」(黒の壺。「黒の瀬戸」などと訳される)と呼ばれる大暴風雨に遭遇。雲を避けて海面すれすれを飛んだところ、林立する無数の竜巻に囲まれ、脱出までに4時間も飛び続けたそうです。

●大西洋をまたぐ「虹」号:
 この海を定期運航するには、単発エンジンでは無理と分かって、1932年に完成したのが、次にご紹介する大型郵便機、クージネ70「アルカンシエル」(虹)号です。

 ここでスナップショットの、2枚組み写真をご覧下さい。上は落日に追い付いたコンコルド。下がアルカンシエル号です。
 ご覧の通り、非常に風変わりなデザインですね。垂直尾翼が胴体の一部になっているのは、空気抵抗を減らす工夫でしょうが、一体どうやって面積を計算するのか(笑)、また機首上げの姿勢では、主翼付け根の乱流で、垂直尾翼の効きが悪くなったのではないかと、あれこれ気になります。
 この機体は、長大な主翼内にトンネルがあり、飛行中に機関士が、両翼のエンジンナセルに入って、修理できる仕組みです。いわば「大西洋を渡り切る間、絶対にエンジンを回し続けるぞ」という設計ですね。
 面白い構造ですが、実際にラジエーターが壊れて修理を試みたところ、機関士が蒸気で火傷し、うまく行かなかったそうです。本機が完成した翌年には、米国で近代的な流線型・引き込み脚のダグラスDC−2が登場する時代ですから、もっと故障の少ないエンジンを、まず開発すべきだったでしょう。フランス航空界にはその余力がなかったことが、苦しい設計から想像できます。

 FlightGearの機体は、SV-4と同じエマニュエル・バランジェさんの作品で、美しいプラモデルのような仕上がり。配布先も同じサイトです。機内に計器はなく、パネル類を取り外した跡が再現され、どうやら博物館の保存機を、忠実にモデル化したようです。プログラムには、Ju-52のパネルを表示・作動させる記述も用意されていますが、パネルを稼働状態にする説明がないのは残念です。また飛行特性にも…正直かなり問題があります。

●フランスの「落日」:
 実際のアルカンシエル号は、ほぼ期待通りの性能を発揮し、メルモーズの操縦で大西洋を何度も往復しました。しかし同型機の追加発注は、ほとんどありませんでした。世界恐慌の影響やフランスの政治経済の混乱から、アエロポスタル社は倒産。間もなくエールフランスが生まれますが、南大西洋と南米にはこのころ、ルフトハンザが進出します。ドイツは水上郵便機に船から給油して、カタパルトで打ち出したり、海面上を超低空で飛び、地面効果を利用して揚力と速度を稼くなど、様々な工夫を凝らして、先行していたフランスを追い上げました。
 メルモーズは1936年、ラテコエール300飛行艇「南十字星」号で大西洋横断中に消息を絶ちました。同じ年に登場した名機DC−3と比べますと、「南十字星」号は古典的に見え、フランス航空界は路線展開でも機体設計でも、色褪せつつありました。そう思うと、風変わりなアルカンシエル号も、フランス黄金期の終章にふさわしい、エレガントなデザインに見えてきます…。

 航空史のお話が長くなりました。次回からは南米の旅です。
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